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心療鍼灸

心療鍼灸という言葉は、いつ頃から使われるようになったのでしょう?

 

 

医道の日本という鍼灸師必読の月刊誌で、第一特集として扱われるくらいですから、もう市民権を得た言葉と思っていいのだと思います。

 

それまでにも、心に響く・・とか、心に効く・・鍼灸というキャッチコピー?なのかよくわかりませんが、鍼灸がこころに影響を与えるのだというアピールはされていました。

 

心身相関とか心身一如とか、こころとからだは一体であって、身体へのアプローチが心に、心へのアプローチが身体へとその関係性を否定する鍼灸師はほぼいないと思います。

 

にもかかわらず、一般の患者さんが鍼灸に行ってみようかと考える局面は、肩凝り、腰痛といった整形外科的なからだへのアプローチが一番多いのではないでしょうか。

 

これは、なにより鍼灸の今までの普及場面が、鍼灸接骨院やスポーツ鍼灸が多く、こころへのアプローチということは、目に見えないものですから、それこそインスタ映えもしないし、視覚に訴えにくい、患者さま側からいえば、どうして鍼やお灸がこころに効くのかさっぱり繋がりがわからない・・・ということだったのでしょう。

 

急にこんなことを書こうと思ったのは、Facebookで、ある医学部生さんのご投稿を読んだからです。

 

そこには、「心身医学」のセミナーに参加されて、心療内科への熱い想い、心身医学療法によって、患者さんに向き合って貢献していきたいという本当に熱い想いが吐露されていました。

 

忘れていた記憶。高校の図書館。池見酉次郎先生の「心療内科」「続、心療内科」

 

 

その頃、不登校気味(まだその頃は登校拒否と言われていました)だった私は、スクールカウンセラーの先生のところと、図書館にだけは行けたので、図書館中のこころと名の付く図書を読み漁っていました。

 

 

そして、自律訓練法によって十二指腸潰瘍を克服し、臨床心理士を目指すべく心理学科へと進み、そこからの回り道は、プロフィールの通りですが、どんなに遠ざかっていても、私の関心は、こころとからだでした。

 

今、昭和38年初版の「心療内科~病は気からの医学」のはしがきを読むと、

 

 

"たとえそれがからだの病であっても、心の影響を受けないものはなく、心のもつれの方を正しく処理することが決定的な意味を持つ場合が思いのほかに多いことを、科学的な立場から実証しつつあるのが精神身体医学である。精神身体医学というかた苦しい表現に代わるものとして「心身医学」という言葉がよく用いられ、体の病気でも心理的色彩の特に濃いものが心身症といわれる。今日の心身医学は、もはや「病は気から」という古い諺を医学的立場から見直すという段階にとどまるのではない。”

―池見酉次郎著 心療内科 中公新書p2より―

 

 

50年以上前に書かれた序文が、今もって古びていないことに驚きます。

 

そして、またその言葉が現代のお医者様の卵に、熱く訴えかける力があることにも感動いたします。

 

 

池見先生は、昭和35年に日本心身医学会を設立され、翌36年に九州大学において、国内最初の心療内科の教授として多くの後進を育成されました。

 

高校生の時の私にはわかりませんでしたが、その後何十年と生きて、心身相関という言葉の重み、改めて「心療」という言葉の意味に深く深く感じ入ります。

 

今、ストレスが病気の原因となりうることを否定される方はあまりいないと思いますが、それでも、「病は氣から」という言葉は、氣というものがどんなに大切かを訴えていると根源からの理解をしている方は少ないのではないでしょうか。

 

 

痛みを訴える患者さんが、「お医者さんに血液検査も、レントゲンもどうもないから気のせいだと言われた」と、憤りを表現されることはよくあります。

 

 

お医者様の「気のせい」が、「あなたの勘違い」という風に受け取られているのだと思います。そして、お医者様も実際、そのニュアンスで「気」というものを表現なさっていることは多いでしょう。

 

 

でも、本来「氣」というものは、停滞したり滞留したり、そもそも量が少なかったりすることで、病を引き起こすものだと東洋医学では考えます。そういう意味で、「病は氣から」「病は氣のせい」なのです。

 

 

どんなに氣、心がからだに影響を与えるのか。

 

野口晴哉先生、河合隼雄先生、増永静人先生、神田橋條二先生、帯津良一先生、分野は少しずつ違いますが、私が影響を受けた心療の達人、天才です。

 

 

これから少しづつ、御高著をご紹介しながら、こころとからだのつながりということ、そして、鍼灸における心療ということを考えていきたいと思います。